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La sede

 

La sede

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東京のイタリア大使館

イタリアと日本の正式な関係は、1866年 (慶応2年) 5月27日、イタリア海軍コルヴェット蒸気船が横浜港に着いたときに始まった。そして同年8月25日、日伊修好通商条約が締結された。

初期のイタリア外交代表部がどこに設置されていたかは、確かな記録がない。1872年(明治5年)になって、東京の虎ノ門の南西部分の2310坪の敷地に定着することとなった。その後30年にわたって建物は拡充されたが、火災や台風の大きな被害も被った。

1919年(大正8年)の火災では、本館の大部分を焼失してしまい、イタリア政府は1922年(大正11年)、皇居に近い紀尾井町にあった旧オ-ストリア・ハンガリ-帝国大使館の所有権を取得した。しかし、この建物も1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で破壊してしまったので、イタリア政府は以前の虎ノ門の敷地の返還を受けた。

その直後、日本政府は同地区の都市計画の実施のために土地を交換して欲しいと提案した。長期にわたる交渉の末、1928年(昭和3年)12月、三田にある旧松方公爵邸がイタリア側に提示された。翌1929年(昭和4年)3月に合意に達し、イタリア政府は6000余坪の土地所有権を取得することとなった。実際に大使館が移転したのは、1932年(昭和7年)3月のことであった。

第二次世界大戦では、1945年(昭和20年)の大空襲で大使官邸は焼け落ち、事務所も同年の空襲でかなりの被害を被った。官邸再建までには、20年の歳月が経るのを待たねばならなかった。新しい建物の原案は1959年(昭和34年)、イタリアの建築家ピエ-ル=フランチェスコ・ボルゲーゼによって作られ、その後日本の建築家村田政真氏がこれに参加した。最終案は1963年(昭和38年)に承認され、新しい官邸は1965年(昭和40年)4月に竣功した。

官邸の構造は、L字型の本館と大使執務室と厨房・使用人居室のある二つの小さな付属館からなる。本館正面玄関の両脇には鉄柵がひろがり、この奥に垣間見える左右の小さな中庭が、建物と中庭を分ける格好となっている。

正面から入ると玄関ロビ-があり、その奥には総ガラス張りの部屋が開けている。さえぎるものは構造上必要なエレメントのみで、視界は庭に向かって開かれており、庭は内部空間の一部をなしているといえる。


本館内部は4つの部屋に分かれているが、一つの部屋から次の部屋へと連続性を持ってつながっている。そのうちの3部屋は一直線にならんでいる。中央サロンの東側には大食堂に続き、西側に数段の階段を降りると大広間へと通じる。この大広間は天井の高さが他の部屋の二倍となっており、空間に広がりが出るとともに、ニつの階に分かれた建物の内部構造が明らかになっている。

この大広間から、L字型の本館の短辺にあたる池の広間へとつながる。直接庭に突き出た形のこの広間は、三方がガラス張りなので、外への視界が大きくひろがる。

建物内部の床は、単色の絨毯が敷きつめられている���ころと、イタリア産の大理石が使われているところがある。壁は板もしくは単色のクロス張りである。大きなガラス戸やふすまのような可動式の壁が、窓や扉の代わりとなっている。

このような実に簡潔なスペ-スに、不朽のイタリア文明の歴史的証しである家具調度が配されており、製作年代別に古代、ルネッサンス期、現代の三つのグル-プに分けられる。

古代のものとしては、ロ-マ時代や原始キリスト教時代の大理石の調度がいくつかある。それは、プリズム型で凸状の側面をもつ彫刻の施された台座(2世紀)、円形の大きな水盤(8-9世紀)、極めて様式化されたモチ-フとキリスト教のシンボルが刻まれた、イストリア石の大きな井戸の環(13世紀)である。

ルネッサンス時代のものとしては、16-17世紀の家具がいくつかある。特筆すべきなのは食堂の大戸棚で、部屋の形と完全に調和している。同時代に属する戸棚やテ-ブルが他の部屋にもある。次の時代のものでは、バロック様式の漆塗りの見事な戸棚と2個の小卓があり、小卓は合わせると一つのテ-ブルになる。

このように全体として調和のとれた中に、現代イタリアの絵画や彫刻の巨匠たちの作品がおかれている。絵画で見落とせないのは、ル-チョ・フォンタ-ナの一風変わった卵型の作品「空間の概念」(1���64年)、20世紀後半の代表的抽象画家の一人ジュリオ・トゥルカ-トの「鉄条網」(1972年)、ガスト-ネ・ノヴェッリが死ぬ2,3ヶ月前に完成した「秘めやかなる快楽」(1965年)、そしてエンリ-コ・カステッラ-ニが伝統的な技法を捨てて新しい製作工程を探求したテンペラ「白の上」(1966年)である。

16世紀の家具とも少しも違和感のないのが、中央サロンのマントル・ピ-スの上に据え付けられたアルナルド・ポモド-ロ作のブロンズの大きなパネルである。そのかたちは光を細かく屈折させたリ、反射させたりして、パネル全体を一つの有機体のように息づかせている。ジョ・ポモド-ロの作品としては、大広間のマントル・ピ-スの脇におかれた黒大理石の浮き彫り(1967年)がある。

こうした作品の数々は、他のすばらしい家具調度ともあいまって、一つの時代の調和と均整のとれた美的感覚を表したまとまりとなっている。

イタリアの大使館の庭は、松平隠岐守の中屋敷跡で、東京でも有数の風雅で由緒ある名園である。17世紀にはすでにできていたのは確かで、何世紀もの歳月を経てきた樹木がその生き証人である。澤庵和尚の設計によるといわれ、典型的な日本庭園の様式をとどめている。小山の一つには今も祠が残っているが、これも造園当初からあったものと思���れる。

春のつつじ、初夏のあじさい、秋のパレットに落とした絵具のような紅葉。庭は四季それぞれに趣を変える。

江戸時代、この松平隠岐守の中屋敷は、ある有名な歴史的事件の舞台の一つとなった。1703年(元禄16年)2月4日、今日もなお歌舞伎の「忠臣蔵」などで言い伝えられている赤穂義士47名のうち、10名がこの庭で自害したのであった。現在ある池の一部は切腹が行なわれた場所を掘り起こして作られ、池の裏手にある築山はその土を盛り上げたものと思われる。そこには1939(昭和14年)、この事件について日伊両国語で刻まれた記念碑が建立された。

徳川幕府が終焉を迎えたあと、この松平隠岐守の中屋敷は、内閣総理大臣をニ回つとめた明治の大物政治家、松方正義の手に渡った。後に公爵の位を授けられた正義は、子だくさんであったが、十五銀行頭取の松方巌、松方コレクションの松方幸次郎、日本山岳界のパイオニア松方三郎など、各分野で名声を残した子供達がこの邸で育った。















大使館事務棟


在日イタリア大使館事務棟およびイタリア文化会館新ビルの工事は、イタリア外務省がこれまで行った建築事業の中でも最大規模のものである。

両棟舎ともイタリア人建築家ガエ・アウレンティの設計による。

大使館事務棟改築・内装工事は予定よりも2ヶ月早く終了し、事務所は2004年7月、新庁舎に移転しました。

大使館事務棟新庁舎は地下駐車場を含む全4階から成っている。
 

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